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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その4


造船所時代の日記(4)です

1980年も、年賀状で、年が明ける。それぞれに達筆で、趣向を凝らした賀状であったが、常にご主人との連名になっていた。私にとっては、それが不思議でならなかった。私は今まで、連名で賀状を出したことはなかった。如何にも幸せですという、感じがして、でも少し嫉妬していたのかも知れない。

引き続き英光丸の設計を行った、2重底という特徴を持つものの、船体強度上は、一番問題がない、小型のタンカーであったために、さほど悩むこともなく、殆どエポックメーキングな事はなく順調に推移した。設計が終わるかどうかというころに、次のS1227(KAPAL):中華系の船主のバラ積み貨物船だ。少し嫌な予感がした。しかし、本船は、玉野の船台で建造出来るぎりぎりの載貨重量13万トンの巨大船である。今でこそ、VLCC(Very Large Clued Carrier)やULCC(Ultra Large Clued Carrier)と30~50、100万トンクラスまで出現しているが、当時の玉野では、巨大船だった。
それまでは、佐世保重工で建造された、日本船主が有する世界最大の「日章丸」10万トンがあり、ミドシップブリッジ(船長方向中央に操舵室を有する)の華麗な船であった。流石、本船が、進水する式典では、佐世保の町中の人が造船所に詰めかけたという。しかし、ドックでの進水式だけに、注水して浮揚を待つだけで、船台を滑り落ちるという、圧巻は見られなかったようだ。

巨大船建造状態


S1227は13万トン、玉野の船台で建造できるぎりぎりの大きさであり、実際には船首前部に支え台を設け、何とか全長が載るという離れ業であった。
更に従来船は、波の山の上に船体前後部が載る(サギング)と、波の山に、船体中央部が載る(ホギング)が縦強度上最も厳しく、それに基づいて、弾性計算されたルールに基づいて設計される。
しかし、13万トンともなると、船幅が約40mともなり、船体の横強度が、問題になる。従って、従来の船級規則では間に合わなくなり、各社、独自に有限要素法(FEM)などを使い計算して、船級の承認を得る過渡的な状態となった。ここが面白いところで、独自の計算による評価を、如何に船級協会に理解して貰い、承認を得るかが、設計者としての醍醐味だった。さしたるトラブルもなく進水式を迎えて、この時ばかりは、玉野最大の船の進水ということで、相当数の町の人が、船台脇に招じ入れられ、進水を見守った。余りの大きさに船体が海に浮かぶとその反動で海水が津波の様に押し寄せ、一部の人は海水を浴びてしまった。
又、慣性力が大きく、対岸の島まで、距離が短かかったので、ブレーキ代わりに、片弦に積んでいたチェーンを投下し向きを変える必要があった。

S1127の進水が終わったら、即、艤装岸壁に着けられ、船体の艤装が始まる。艤装とは、お化粧の様なもので、船殻が出来ても、裸では歩けないので、着物を着、化粧をする必要がある訳だ。
船は、昔部材をいちいち船台で組み立てていた当時と違い、ブロック建造と言って、日本が、独自に考えた方法を採っていた。先ず、起工式の前に、予め、船体をブロックに分けて、その部分を造っておく訳だ。そうすると、前の船が船台にいても、仕事が出来る。起工式は、ほんの儀礼的なもので、2枚の板を、アーク溶接にて繋ぐことで、お終いである。其処に、どっと、出来ているブロックを次から次へと、持ってきては繋ぐ訳だ。そうして、船体の上甲半から下が出来上がっている上に、出来上がっている上部構造(船室、操舵室など)を搭載する。それを搭載して、基部を溶接すると、即進水である。従って、当時は、船台3ヶ月、艤装3ヶ月と、6ヶ月余りで、1隻を引き渡していたことになる。(最も、単純なバラ積み貨物船の場合だが)艤装岸壁では、ブロックで既に艤装を施されたもの同士の連結や、その他上部構造内部に、間仕切り、家具などの設置が行われる。

私は、進水後直ぐに船底に潜り、船首部船底に損傷がないかどうかを調べた。というのが、進水時に、船尾部に浮力が付いた時、船尾部が持ち上がり、船首船底に大きな力が掛かる(リフトバイスターンと呼ぶ)から、船首部の船底をその為に補強している。その補強が有効であったか否かをチェックに行くのだ。それも13万トンともなると、結構な力が掛かることになる。(おおざっぱに言うと、半分の力が掛かる)13万トンは裁可重量だから、使われる鋼材重量は、2万トン程度であろうか、それでも船首部には1万トンの力が掛かることになるわけだ。無事な姿を確認して、やおら、船底から出てきて、青空の下ほっと一息つくのであった。暫く、試運転までは、その船は艤装屋の手に委ねられる。

******

そうこうしている内に、13万トンのバルクS1229/51の姉妹船が飛び込んできた。船主は、華僑系のワーコンである。KAPALにしても、ワーコンにしても、中国人は、金を持っているなぁと感じた。
この船については、前船とほぼ同型であり、一から図面を起こすことなく流用出来たので、難なく終わることが出来た。こういう船が続くと、俗に同型船効果と言って、会社は儲かる。我々設計陣も一寸一息付けるというものだ。
でもそのまま遊ばせてくれるほど会社は甘くはない。F553がついに来た。F番である。船型リグであったろうと思うがハッキリしない。今までと違って、商船で、荷物を運ぶのではない、F408/9の時に少し触れたが、リグ(石油掘削船である)F408/9はジャッキアップリグで、沿海用だが、今度のは船型リグで少し沖合に出ることが出来る。何れにしても本リグは、他グループが設計していたものを、手伝う形で、参画した。この時点が私の転機の始まりだった。

船型リグ(と言っても小型だったので、切削能力・深度は、それ程でなかった)を手伝っていた時、時の直属の上司に呼ばれた、現監査役である。
上司は私に向かい「○○君、君は之からカーブ定規は要らないよ」と言われた。この上司の独特の言い回しだ。何のことかきょとんとしていると、上司は続けた。「君には之から、海洋構造物を担当して貰う」だった。
新しく始まる分野だった。アラブの石油事情がもたらした、米メジャーの石油に対する危機感がこの仕事を私にもたらした。
当時、既にCADが導入されていたので、カーブ定規は要らなかったが比喩で言われた。どういう事かというと、一般商船は外形が、3次元の曲がりを持っている。これを各断面で切り、その箇所の補強材を設計していく訳だが、外形は2次元の曲がりを持つ。それが海洋構造物(今やっている船型は別だが、半没水船型のものは、前後にわずかにコンパスは要るものの他は基本的に直線の組み合わせだ。だからカーブ定規はいらない。私は喜々となった。「分かりました、やらせて下さい、有り難うございます」簡単に礼を言った。
上司は、満足げだった。上司は、日頃から、私を大事に扱ってくれて、例の皮肉っぽい表現(最初に入った時にクレーン台がきっかけ)ではあるが、何となく親しみが湧き、尊敬出来る人であった。

私は、一般商船なら殆どの船種は手がけて来たし、これ以上リピートしても意味がないと思っていた矢先だったから、嬉しかった。一般貨物船(Cargo)、油槽船(Tanker=Oil carrier)、バラ積み貨物船(Bulk Carrier)、コンテナ船(Container Carrier)、冷凍運搬船(Reefer)、鉱石運搬船(Ore Carrier)、自動車運搬船(Pure car carrier)、自走式重量物運搬船(Roll on Roll off)と2軸、3軸船も経験した。
ふと親父が関係した、幻の不沈戦艦大和は4軸だったなぁ、(平賀譲先生は、立派だったのだなあ等と感慨が走った)。
しかし、私も手がけていない船種があった。LPG CarrierとLNG Carrierだった。LPGタンカーは液化石油ガス(LPG)を運ぶ船舶。石油ガスの成分のうち、プロパン、ブタンなどを加圧または冷却して液化し、船倉内のタンクにいれて輸送する。大型船では冷却方式がもちいられている。沸点は-42.1°、LNGは沸点-162°と低温のエネルギーであり、貴重なエネルギー源の一つである。LPGは、他の担当者がやっているのを横目で見るぐらいだったので、その問題点が如何なる所かは知り得なかった。しかし、沸点が-42.1°と比較的に温度が、低くないので(と言っても常識上は低温も良いところである)、さほど問題視はされなかった様に記憶する。LNGの方は、もっぱら千葉で製造していたので、担当すべくも無く、出張の度にドックを訪れた時見るだけだった。異形ではあった。

一口にLNG船と言っても私の会社や、川崎重工などで扱っているのは、球形のアルミタンクを搭載する、モス・ローゼンベルグ型で船体には通常4基~5基のタンクを搭載する。135,000立方メートルの大型船である。球形タンクは、アルミ製で、低温に対応している。球形の赤道部分にそのノウハウはあり、特殊な形をしたリングを用いて、船体に熱が伝わらない様に設計し、載せる様になっている。精密な工作と、卓越した技能を要し、未だに韓国の追従を許さない部門である。
もう一つ、三菱、石川島などがやっている方式は、自立角形IMOタイプで俗にメンブレイン方式と呼んでいた、詳しくは知らないが、外国からの導入ものであることに代わりはなく、船体を角形の侭、内面に直接断熱材を貼り、表面は、矢張り低温に強いアルミを使っていたものと思われる。
大きくは、この2種を除いては、やり残した船に、心残りはなかった。もちろん特殊船グループでは、ホーバークラフトなどもやっていたが。

新しい気持ちに切り替えて、F番船(リグ)に取り組む事になった。

****

当座は、仕事も他人の手伝いの様なことをさせられて、些か、むっと来て、それから言葉少なくなった。バイオリズムの底辺である。翌日は、ふて休みをしたが、ごろごろしていて結局よけいに体に変調を来した。
翌日から貨物倉構造のビルジパートを受け持って設計した。

バスケットボールでは、岡山実業団でナカシマプロペラを完膚無きまでにたたきのめし、4度目の優勝に輝いた。山陽新聞のスポーツ欄に極めて小さい字で、それは告げられていた。祝賀会と、新人歓迎会をかねて、造船所近くの飲み屋「藤よ志」で飲む。翌日は二日酔いで何も手に付かなかった。

家のことでも、なかなか落ち着かず。本当に家を持つと言うことは如何に大変であるかが分かった。
6月に入り、梅雨らしくもない内に、課内の編成替えがあって、私は、現監査役の下で働ける様になった。

しかし、一日一日が空しく、何も刺激もなく、ただ淡々と過ぎていった。病気故に止めていた酒も、何故か自然に手が伸びてしまった。
バスケットボールに逃避した、2試合連続で走ったので流石にぐったりとなり、ビールを飲みますますぐったり。会社に入ってからバスケを始めたという、FKu君などは、最高の出来上がりだった。(レベルは別として)若い奴は、懸命になると素晴らしい。

土曜日、朝から夕方まで、豊島で、貝拾いをした、TYa君に誘われ、息子と一緒だ。昼は海水浴と、フェリーで渡したバイクで島内を走った。午後潮時を見てアサリを大量に捕った。息子も大はしゃぎだった。
その夜は、珍しくFKu君が来て話し込み泊まって帰った。

日曜日、岡大での練習、何かしっくりしない。負ける相手でないのに負け、帰りの茶店で、キリン小瓶を飲む。帰ってあさり(昨日取ったのが塩を吹いて食べられる様になっていた)をバター焼きで食い旨かった。
月曜日、KAnが来た、宇野駅まで出向かえ、しばし歓談。その間にTYa君は、車のタイヤ交換をしてくれ、時間が来たので、KAnを岡山まで送り別れた。久し振りに合う、高校時代のバスケット仲間は良いものだ。
翌給料日、練習には12人集まっていた。何となくしっくりしない。ディフェンスに難がある。オフェンスは、体調悪く、矢張り、シュートが思う様に入らない。疲れがひどかった。

このところ仕事らしい仕事はなく、ただ無為に過ごす。男は矢張り仕事がないと、もぬけの殻になってしまう。嗚呼、知的興奮が欲しい。残業だけはした。
旧TTsu係を解散する名目で「かき重」で飲むも19:00に辞去しバスケットの練習に行く。
土曜日病院、リーマスは、発売前故と28日分しか呉れず。
午前中は、買い物「新婚さんいらしゃい」を見て車に新しいマネージャーを乗せ、試合に向かうも途中でエンコ、SMo君を呼び、寿司屋の友人達に押して貰って、関屋自動車で、隣のポンコツ車から、必要な線を取り、何とか走れる様にした。試合には遅参したが、「瀬戸クラブ」に勝ち「倉工OB」には、一度逆転したものの、力尽き敗れてしまった。エースの不振が、原因だった。私も捕球がいつもになく乱れ、ジャッグルのしどうしだった。之では勝てない。SMo君と、KSI君(倉工OB)は、やれば出来る。KSi君などは小さいが、センスは良い。帰りは飲み会もなく悄然と帰った。

7月に入って、雨、体調優れず、惰性で会社へ。午後特殊船設計への転属が決まった故S、KO、TY、YTは4日付で配置換えとなる。別れは寂しいものだ。
夕方練習に行くも人数は少なくYSi監督も愚痴を漏らした。

バスケットボール部のミーティングがあった。出された意見は、
I:Zoneの守り方が良くない。Post man Defense法、指示者の見解が統一していないため混乱。その他、速攻に於けるOut Number(相手より1人多くなる)の位置取りの研究。
FK:練習パターンをハッキリさせること。試合おける弱点。シュート力の低下、試合でのがむしゃらさ。
M:早く試合形式になれること。
KS:Defenseの練習。Offenceでの予想Playガードマンとして、人の出入りに対する順応性を早める。
K:スタメンでない悲しさ、後半3分の出場では如何ともし難い。
W:上層部が、しっかりしているのでやりやすい。ただ、自分はシュートが入ると調子が良いが、決まらぬと調子自体も狂う。All man to manを主張Zoneは不要。1:1または2:2の練習でよい。
KM:勝つためのムード作り。練習週3回は、本当に必要か。
等。
体も、車もポンコツに近くなった。車はサイドブレーキが利いたまま、ワイヤーの先が曲がったままで、駄目、修理屋で4000円払う。

7月7日(日)
新幹線で、大阪へ向かった。息子が、車中ではしゃぐのはいつものことだ。亡き父の1周忌。姉妹は揃った、遠くで、吠えるよりも、近くで居る兄たちの方が、安心していられるのか、母は上機嫌だった。広くはないが、自分たちだけの総二階の部屋を立て(兄嫁の差し金)過ごしていた。いい顔をするのはこんな時ぐらいで、おそらく鬼の様な仮面を持っている女だ。その息子もいわゆる精神薄弱児と不憫で、何と声を掛けて良いか言葉が見つからぬ。一姉が、とんぼ返りするというので、私も帰った。疲れたが、終わった。

翌々日、5:00起きで、海上公試。80rpmで1回110rpmで2回と5~6点振動計測するも異常は無し。後進(Astern)が掛からず2時間遅れてランチで造船所に着いた。
翌日は、船殻設計では珍しく、渋川荘で、カクテルパーティーをやった。二日後、阪大会で、設計の機関艤装課長と、設計の艤装課長の歓送会を「玉花壇」で行った。
土曜日は、近県招待で、高松にてバスケットボールをしたが力及ばず敗退、時に競輪があったので、やむなく徒歩にてフェリーまで帰った。

F553を終え、リグの取り掛かりをマスターした私の下に新しいリグ、最初のフレッシュなリグの設計(プロトタイプ)が飛び込んできた。今までの商船では、どれも基本設計といって、船の横断面を東京本社の設計陣が設計し、それに基づいて、玉野の設計陣が、コンプロ(Construction profile & deck plans)、外板展開(Shell expansion)、舵(Rudder)、船尾骨材(Stern frame)等を展開していく。私はそれらkey planと多くの舵の設計に携わり、船尾骨材も手がけた。機械設計に似たこともやったので、相当自信がつき、元々緻密(融通が利かない)面が、その方面の仕事に向いていたと言える。リグは自航式のものでも、簡単なエンジンしか持っていない。従って振動の問題は余り無かった、しかし皆無ではなかった。

お椀型掘削リグ:KULLUK

珍しいお椀型リグ(これで北極海を掘りまくる)


最初に設計したのは、F564でGulf Canada社のリグで名をKullukといった。そのころ線図グループ、詳細設計グループが、構造設計室(船殻設計課は、昇格してこう呼ばれた)に加わっており現場との橋渡しなどは随分楽になっていた。私は課長補佐になって3年目を迎え、実務上の重責を担っていた。勢いリグのあらゆる問題は、私の下に集積し、船主対応、基本設計との連絡、現場対応、室内の技術の取り纏めなど、目の回る様な忙しさだった。しかしその繁忙を私は楽しんだ。F564はお椀のような円形のリグであり、本格的な北海(寒冷地)仕様、ベーリング海峡の北、ボーフォート海で掘削する様に考えられていた。この原図面は、船主から与えられたものであったが、工作する上で考えられたものではなく、之でそのまま建造するのは不十分であった。私達は、懸命に取り組んだ。しかし、商船を長くやっていたので、リグといっても余りぴんと来ない。それに、北海仕様、一体どうして良いか分からない。しかも円形(多角形で、ほぼ円形に近い)である(Conical Drilling Unitと呼ばれた)。工作上の問題、低温仕様の鋼板の選定、狭隘部の工作方法。全てが未知であった。何故に円形をしているかは、こういう事だった。ボーホート海の冬は、厚い氷に覆われて仕事が出来ない。乗組員は全て陸地にヘリコプターで帰る。放置されたリグは、氷の強大な圧力に押しつけられる。その氷圧に絶える最も合理的な形状が円形なのである。納得すると共に、欧米人の合理主義を見た感じがした。
その様なリグを設計するには極めて難しい対応が求められた。上司の計らいで、私の部下には優秀な人材が集められた。リグが如何に難しいか、又、之からこの分野でやっていこうという意気込みが、まともに私の肩にのし掛かってきた。リグは基本的に、カーブ定規が要らない。速度を求められないから、又円形故、自航は出来ず、タグでの曳航となる。船級はアメリカン・ビューロー・オブ・シッピング(ABS)であった。私は、NVが得意だが、アメリカはどうか、北海での経験は、等と要らざる詮索をした。直径=81m、深さ=18.5m、甲板からデリックの頂上まで=72.3mを108名で運行する。丁度ワイングラスを押しつぶした様な船型だ。クレーン3基、ヘリポート、パイプラックあらゆるものが備わっている。建造途上で、台風シーズンとなり、円形故、係船が難しく、わざわざ、大きな係船用だけ(台風用)の補強構造物を作成した。今も現役ばりばりの私の後輩がその設計を担当した。彼に任せていれば、殆ど大丈夫である。又、冬季は、仕事にならない故に、乗組員全員が、リグを放置し、ヘリコプターで、陸上に上がる事は前に述べたが、その間リグは漂流するに任せるわけだ。翌年の春が来ると又ヘリコプターで戻ってきて、「おーい、リグやーい」と探すことになる。

F564は、又、塗装面でもうるさかった。氷圧に負けない非常に厚い塗膜を要求され塗装が未だ現場部門に属していたので、私はその結果を待つだけで良かった。その後、塗装をも管轄することになるが、この時そうであったら、頭痛の種が一つ増えていただろう。
円形故、ファセットとなる、多角形の角部の溶接が難しい。厚板のため、大容量の電流による溶接となる。しかも、溶接性の良い材料でないと、割れが生じやすい。私は、船工部の技術者と、新日鉄の技術者と一緒になって、試験を繰り返し、会議を何回ももって、決定した。
その様に吟味された材料であったが、中には船主支給の材料もあった。クレーン台である。入社した時初めて、関係した懐かしい構造だ。それの鋼材が、溶接後割れを起こし、ダイ(染料)チェックなどを行って、逆に船主にクレームしたこともあった。

こうして、F564(Gulf Canada)送り出し、しばらくの後にF570が来た。OwnerはMr. Henry Goodrichで眼光鋭い中にも柔和な人物であった。その名がそのまま船名として使われた。如何に力が入っていたかが分かる。潜水部のポンツーンの前後は、単なるRで良い。しかし、極端に言って、四角いもの同士の交点は、リグが波に揉まれた時異常な高い応力を発生して、(応力集中という)亀裂を発生し易くし、それに対応することが、当然求められる。私たちは、並の解析方法では、駄目であり、当時導入し始められ、今では常識になっている、有限要素法(FEM)を用いて、応力集中部の板厚の選定などを行った。
もちろんプロトタイプ(初設計)である。要目は長さ=97.7m、幅=76.5m、上甲板下部までの深さ=39m、150人を載せ、掘削深度は7620mと立派なリグであった。安定した4本足の上に上甲板を載せ、その上に数十メートルの高さの櫓を組み、そこから掘削のためのパイプを繋ぎながら海底を掘削するのである。

Sonat建造状態

玉野のドックは浮きドックを含め3つ有ったが、1つのポンツーン(浮力体)はその最大のドックの幅ぎりぎりで建造しなくてはならず、建造もさることながら、進水時には、非常な時間を掛けて、ゆっくりと、ドック外に搬出する必要があった。船級はNVであり、私は、船級協会の人間とは既に顔見知りであって、それなりの信頼を取り付けていた。Mr.○○が言うのなら良いだろうという場面もいくつか有った。半没水船=Semi-Sub(Semi submersible)と呼んだリグは、矢張り商船とは違ったものがあった。これも、北海での掘削のため、低温脆性(低温に於ける鋼板のもろさを言い、鋼板に粘りがないと、直ぐに鋼板が亀裂を起こし壊れてしまう)に対する配慮が求められ、新日鉄との交流会が幾度も行われ、適用する鋼材の選定で、大きな問題を解決しなければならなかった。上甲板構造の重さが、優に1700トンを越えていた。これを、従来通り、地上で先行組み立てを行い、出来上がったところで、深田サルベージの3000トン吊り海上クレーン船で一気に持ち上げようという施工方法だ。設計陣は、重量の間違いがないかを幾度も検算し、又その重心を算出して、クレーン船から降ろされた20数点の吊り点の位置に補強を施し、イコライズされたスリングで、一気に搭載を行う。これを持ち上げる際(地切りという)重心の位置が狂っていると、吊り上げた時点でブロックは大きくずれ、大事故になりかねない。私は、計算に間違いの無いのは分かっていたが、祈るように、現場の片隅にたたずんで見守った。

Henry Goodrich出渠

巨大なクレーンで吊り上げられたブロックが搭載されるHENRY GOODRICH(
表紙参照)



Henry Goodrichの上部構造は地切りされた。1700トンある上部構造はふっと数センチ横へ揺れただけだった。私はほっとした、重心の計算は間違っていなかった。でも強度の方は・・・。吊り上がりゆっくりと4本のコラムの上に落ち着くまで、固唾をのんで、見守った。3000トン吊りクレーン船はじれったいほどゆっくりと、スリングを撒きながら、上甲板構造物を徐々に高くつり上げていった。あちこちで笛の音や、大声で叫ぶ声が聞こえた。やっと、所定の高さまで、吊り上げると、今度は、クレーン船は、岸壁を離れ、ドックの方に向うくべくタグボートに押されて、向きを90°回転した。私の頭の中には、必死に検討した補強図面がくっきりと浮かんできた。あの点は、ドアがあって、仕方なく塞いでいたとか、あの点は、補強のため板厚を増して対応したとか、構造物の吊り点だけでなく全体の強度はどうだったかとか、走馬燈の様に計算結果と図面が私の頭の中で渦巻いた。

上部構造の吊り上げ状態

そうこうしている内に、クレーン船は一旦取り払われたドックゲートから海水で満たされたドックの入り口にさしかかり、静かにドックの中へと侵入、所定の位置に止まりスリングを下ろし始めた。海上クレーン船で吊られる側と、ドック内のコラムの上で待ち受ける、下ろされる側はお互いにハンディートーキーで連絡しあい、そのポジションを決めて、4本コラムの上に無事落ち着いた。(とび職の、華の出番である)とにもかくにも、セットされたのを見て、私は、ほっと安堵の息をついた。それから始まるであろう、完成に向けての作業を思いながら、ドックを後にし、一旦設計室に帰った。「どうだった?」と同僚が声を掛ける。「ああ、うまくいった様だ」と私は、言葉少なに返事した。もっと高ぶっていても良いはずなのに、不思議な感情に支配されていた。
Henry Goodrichの構造は、2本の潜水するポンツーンという浮体構造(この中にジェネレーター等が入っている)と、4本のコラムと、上甲板構造。それに、それらが、バラバラにならない様に互いにたすきがけするブレーシング構造とで成っており、その上に、掘削のためのパイプを載せる、パイプラック、更にそれを繋ぎ合わせる、作業台構造、そして、高い櫓である。遠洋に出るために交通手段であるヘリポートも用意されている。大概、ヘリポートは、端の方に取り付けられるため、構造屋泣かせである。補強がやりにくいからだ。更に、レスキューボート、船側遠く排出ガスを燃焼させる装置(フレアブーム)、様々な機械を積んだ工場である。

掘削パイプの先端はダイヤモンドを埋め込んだカッターが回転する様になっており、それらを海底まで届かせるために作業台部では、1本十数メートルのパイプを繋がなくてはならない。それらは、艤装の仕事であり、実際には掘削の時にアメリカ映画に出てくる赤い円筒服を着たオイルマン達が繋いでいく。1隻数百億円~300億円のリグは、1回油田を当てるとペイ出来るけれど、当てなければ、大きな損失となる、ハイリスク・ハイリターンの代表である。海の男が、リグにかける意気込みが感じられ身が引き締まる。油田を掘り当てると、油が噴き出し危険であるため、泥(マッド)を使いブローアウトを止めるブローアウトプリベンターが取り付けられている。しかし、私のチームは、有能な人が多く、これら難問を次々解決していった。
更に掘り当てた石油資源の品質を検査するための装置が、積まれていた。この装置は、世界中で、シュランベルジャー社だけしかできなく、私たちは、全くその内容を知ることは出来ず、ブラックボックスであった。

私は、部下に恵まれていた。私は実質上海洋構造物の設計課長の職をこなしていた。
上司に言われた通り、カーブ定規は要らなかった。しかしそれにも増して過酷な、設計条件が待っていた。
低温に対する脆性問題。過酷な運動による船体に及ぼす高い応力、私の部下は、構造計算や、FEM(有限要素法)を駆使して、これら難問に立ち向かった。
完成間近、船体の上1/3は黄色、下2/3は黒に塗り分けられたHenry Goodrichは公試運転に出た。私も当然乗船。各部を、その図面通りになっているか、イメージ通りか、様々な、感慨を抱いて、船内を歩き、帰港した。ほどなく、大海原に油田を求めて出港していく姿を、ドックの陰から見送った。

私が最初から最後まで、手塩に掛けた、2隻目のリグを送り出し、少しの間、平穏な時期がやってきた。次のリグが来るまでの間、「くろしお」の改造が待っていた。殆ど、記憶に残っていない、私は、それをおそらく、苦もなくやってのけたと思う。
私はかつて克明な業務日誌を付けていたが。度重なる引っ越しで、その殆どを無くしてしまっていた。記憶はあべこべかも知れないが、「天山」を手がけたのもこの時期だった。天山(F568)は重量物を運搬するためのバージだった。甲板に何もなく、重量物を運ぶためにだけ、浮力を提供する船だ。しかし、材料力学の典型的な問題を秘めており、どのように積めば、どの倉(船倉は、皆バラストタンクと、その注排水装置であった)にバラストを入れれば、船殻構造上有利か、多くのシミュレーションを行う必要があった。しかしそれはともあれ、リグに比べれば、大した問題ではなかった。Gulf Canada、Henry Goodrich、くろしお、天山を嫁に出した(引き渡した)。
そして身軽になって、来たるべく大物がやってくるのを、手ぐすね引いて、待つことになる。今にして思えば、この頃が華で以降は段々と勢いを無くすことになる。残念なるかな、かつて、ホルツァー法で振動問題を解いたり、舵の計算機による設計を駆使したりプログラムFortran をこなす力は無くなっている。管理職に足を踏み入れてしまった。

管理職と言っても、実質的に課長が海洋構造物を任せてくれただけであって身分は未だ課長補佐、しかし、私の言は絶対であり、部下の信頼も得た。数年前から、線図グループが、構造設計室に吸収される形で、一緒になった事は述べた。
そんな中やって来たF573(SSDB)である。巨大なセミサブ、クレーンバージだ。興奮した。

12000ST巨大クレーンバージ

12000ton吊巨大クレーンバージ(苦労したフェアリーダーは水面下)


こちらはまだF573を如何に料理するかで頭がいっぱいだった。

クレーンバージは正式名を「McDERMOTT DERRICK BARGE NO.102」だった。(我々はクレーンバージ又は、SSDBと呼んだ)
全長=198.9m、全幅=88.4m、メインデッキ迄の深さ=49.5m、積載可能デッキ荷重=12000MT、主クレーン=6600ST×2基、補助クレーン=1000ST×2基、雑用クレーン=220ST×2基
スラスター=3000PS×6基、スピード=8.11ノット(自航である)。
クレーン船のお化けである。それまで、深田サルベージのクレーン船(3000トン)しか見ていなかったので、その大きさに圧倒され、構造設計室挙げての取り組みとなった。
主クレーンの先は黄色く塗られ、立ち上がった様子は、大鷲が、獲物に飛びかかる様な風情であった。

SSDBはクレーン船だから甲板上には、ほとんど構造物はないが、巨大なクレーンペデスタルは見るのも恐ろしい位大きくて、クレーン台一つ設計するだけで、十分な仕事になるという感じだった。それが2基有り、吊り荷重13200STである。想像出来ない。それを支えて浮かぶ半没水タイプのセミサブポンツーンは、それを遙かにしのぐ大きさである。コラムも、Henry Goodrichの2本に対して、更に一般のセミサブ6本に対して大きな柱が8本立っている。クレーン台の上、その先端は特に大きく中間の4本は少し小振りであったが、小さいものでもHenry Goodrichのそれよりも大きかった。

双頭の鷲の様なクレーンを持つ巨大なSSDBはその前方に比較的こじんまりした居住設備を有し、そこから回廊を通じ、一段高い位置にはヘリポートを有していた。居住区の前方には、国際海事機構(IMO)で定められた、数(定員の2倍:タイタニック号以降決められた)のライフボートが8隻、片持ち梁の様に張り出して、設置されていた。かえって構造屋にとっては、こういうのがやりにくい、何処か甲板の上にあれば、支持台も取れるものをと恨めしく思ったものだ。本船の設計は、といっても、前に述べた、基本設計、詳細設計、工作図グループ、原図グループと別れ、リグの場合その全てを、玉野で行った。勿論のこんな大事業を私一人で出来る訳が無く、多くの優秀な部下が参画した。私の指示に、みんな良く応えてくれた。私が分からないことも、彼らは自分たちで解決し、私に同意を求める。そんな風に、設計は、非常な大事業を淡々と進めた。
接弦用の盤木もコラムの外側に取り付ける。後で問題になる係船用フェアリーダも。
設計が、苦労すると同様、工作部も苦労を余儀なくされる。施工方針が、従来のリグと違い、大きすぎて、一筋縄ではどうにもならない。ポンツーン(浮体)が2基あるが、その間隔が広すぎて、大きなドックでも建造が出来ない。知恵を出し合って、二つのドックを跨いで、造ることになった。玉野造船所史上前代未聞である。

SSDB建造状態

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SSDBの設計は、終焉を迎えそうになった。でもその時重大なことを船主から要求された。係船用のフェアリーダーがコラムから飛び出ているのがまずいという。もう工作に掛かっており、現場には即ストップが掛けられた。それをやり直すのは、物理的には、可能だが、お金の問題と、納期との関係をキープしてとのことだ。金は払われるという。後は納期だ。設計変更が私達を待ち受けた。殆ど徹夜に近い業務が要求された。私を初めスタッフは、一生懸命頑張った。しかし、過大な荷重の掛かるコラムの下部にリセスを造る訳だから、それだけでも大変だ。そこには応力集中もあり、並の板厚では、間に合わない。私は、善後策を協議に、急遽神戸のNVに出向いた。色々協議をして、NVの連中も、本国とのやり取りをしてくれたが、如何せん出先ではそれ以上は進展しない。
私の上司は、私にオスロ行きを命じた。「なるべく早く構造を決定し、決まるまでは帰るな」そして、「飛行機に乗る時、君は、Full Fare Passengerだから堂々と行ってこい」だった。最後の意味はその時分からなかったが飛行機に乗って、やっと分かった。私にとって、業務での海外出張はそれが初めてだった。当時、未だ洋行気分の名残があり、壮行会的なことが小規模で行われた。「大変だなぁ、納期も掛かっているし、造船所の威信に拘わるね」などと、半ば強迫観念を植え付けられる出張になった。
海外へはそれまでは、兄が、違う造船会社で、シンガポールの駐在所長をしていて、そこに行ったことがある位で、余り縁がなかった。商船時代も、振動計測で、ペルシャ湾を往復するとか、オーストラリアのWWF(Water side Workers Federation:オーストラリアの海員組合)への交渉、台湾への出張、カナダへの船主交渉、・・・そのたびにパスポートにビザの判子はつくものの、実際には、立ち消えになってしまい、今回が本当に初めてだった。

私は、出張は10日と踏んで、身支度をノルウェーの気候に合わせて準備した。荷物はさほど大きなものにはならず。ビジネスマンらしい出で立ちとなった。正門からバスで出発するのを数人が見送ってくれた。成田までは通常の出張で、成田で1泊しアラスカ・アンカレッジ周りのコペンハーゲン経由オスロ行きとなった。成田で、飛行機に乗った時、ビジネスクラスだった。当時は、ヨーロッパへの直行便はなかった。
正規料金を払っている「Full Fare Passenger」の意味が分かった。ゆったりとしたシートだが、気持ちは、とても窓外を眺める余裕など無く、頭は、如何にノルウェーでの交渉を短時間に有利に進めるかと言うことばかり考えていた。アラスカまでは、比較的短い飛行時間だった。もちろん北へ向かう飛行機は国内でもなく、出張とはいいながら何かしら心が躍る気分だ。機内は、まだ日本人が多く、とても外国への旅だとは感じさせなかった。
アンカレッジについて飛行機を乗り換えるために空港内の免税店を回る時間があった。
無聊で店を冷やかして歩いた。トランジットの制限時間が来たので、コペンハーゲン行きの搭乗口に向かった。待つこと数十分やがて搭乗が始まった。今度は大圏航路で、ヨーロッパまで行く。日付変更線こそ横切らないが、長時間の空の旅になりそうだ。私は、ビジネスクラスのシートに深々と腰を下ろした。

ヨーロッパに向かう機内を見渡した、搭乗する時もそうだったが、日本人はもう、少ししか居ない。今日の様に海外旅行ブームでない。段々不安になってくる、機内食を運ばれる度に、和食はなく、パンと肉か魚、チキンの繰り返し。いい加減飽きて、又ワインを所望する。際限無く飲み、顔は赤くなるも、心は、交渉のことで一杯である。酔えない。機内のたった1泊が、数日間の様な錯覚を起こすほど、私にとっての飛行は長かった。

朝、再びコペンハーゲン空港にトランジットで、降り立った。
結構寒い。
朝早かったから、空港内売店も殆どシャッターがおり、木目調の床のこじんまりした空港は、歩き回るにしても、何も見るところはなかった。機内での朝食を済ませていたので、ただ次のオスロ行きを待つだけだ。
今までは地球を半周する必要があり、大型の飛行機だったが、今度は近所の都市(オスロ)へ飛ぶだけだ。
やがて、ローカルの飛行機が、プロペラを回しながら、ゲートに近づいた。黄色っぽい飛行体に青色の横線が入っていた。定員も100名までいかないのではないだろうか。デンマーク国の領土上空を暫く飛び、スカラゲック海峡とカデガット海峡の合流した線上のフライトになる。私は、周りを見渡した。外人ばかりである。ふとその時「そうじゃない、ここでは俺が外人なのだ」と納得した。デンマーク語か、ノルウェー語を喋っていたのであろう、私には内容が分からなかった。その内スカンジナビヤ山脈が見え、スカンジナビヤ半島の入り江奥深く、オスロの市街が見えてきた。幸い、案内の中には英語のアナウンスもあったので、どんな状態なのかは知ることが出来た。私の気持ちがどうあれ、オスロ空港に無事着陸した。私は、飛行機に乗る度、飛行機事故の殆どが、離着陸に集中していること、を知っていたので、いつものように着陸態勢に入って、高度を落とすと、この時点で失速すると生存確率は○○%といった具合に考えていた。無事プロペラ機は、オスロ空港にランディングした。

【造船時代その5】に続きます。


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